
モンゴル帝国の祖「チンギスハン」はあまりに有名な人物です。
実はこのチンギスハンが源義経ではないのかという都市伝説があるんです。
詳しく見ていってみましょう。
源義経はモンゴルに逃げ延びていた!?
源義経は31歳の時に、兄である源頼朝に敗れ自害したというのが定説となっています。
しかし、源義経は生き延びていてモンゴルに渡ったという説があります。これは本当なのでしょうか。

源義経の自害後、義経の首を鎌倉にいる頼朝に送ったらしいのですが、自害した場所(岩手県平泉)から頼朝のいる鎌倉に首を届けるまでに43日間もかかっているのです。
これ、おかしいと思いません?いくら徒歩とはいえ、岩手から鎌倉まで1ヶ月半もかかるなんて・・・
実はこれには理由があり、首は源義経のものではないので時間を稼いでわざと腐らせたのではないかと言われています。

この時の季節は夏なので、43日間もたてば腐ってしまうでしょうからね。では、この首は誰のものだったのか。
実は源義経の死後、ぱったりと記録が途絶えた人物がいます。その人物とは、義経の世話役だった「杉妻太郎」という男です。
彼は源義経に瓜二つで、見間違えるほどそっくりだったと言われています。
源義経は杉妻太郎を側近にして、いざというときには身代わりになってもらおうと考えていたのではないでしょうか。

しかし腐った首を頼朝に見せても、納得するはずがありません。頼朝はすぐに、平泉に刺客を送ります。
その刺客は「畠山重忠」という人物。畠山は源義経と弁慶に追いついたという記録が残っています。
しかし、畠山は落ちゆく義経に同情し、わざと弓をはずしたという逸話が残っています。その矢は大きな木に突き刺さりました。
その場所は現在でも残っており、岩手県久慈市の「諏訪神社」に今でも御神体として祀られています。

畠山の同情もあり、からくも逃げ延びた義経一行。まずは蝦夷(現在の北海道)に逃げ延びます。
そこから海を渡り、モンゴルに行きチンギスハンと名を変えて歴史の舞台に舞い戻ってきたという都市伝説です。
源義経とチンギスハンは同一人物!?
チンギスハンは資料が少なく、謎の多い人物です。チンギスハンが歴史に初めて登場したのは、義経の死から17年がたった頃。
若干のずれはありますが、源義経とチンギスハンは同年代になるわけですね。
チンギスハンはモンゴルで大型の弓矢を使っていという記録が残されています。大型の弓矢を使っていたのはチンギスハンだけと言われています。
当時のモンゴルでは小型の弓矢しかなかったのに不思議ですよね。日本では大型の弓矢を使っていたので、大きな共通点と言えそうです。
かなりの戦上手で知られる源義経だけに、モンゴルに渡り帝国を築き上げるのも可能な気もします。
そしてこの「源義経=チンギスハン説」を最初に唱えたのは、ヨーロッパから大陸を渡ってやってきた医師「シーボルト」です。
大陸を渡ってきた彼が言う言葉なら、妙に信憑性があるように感じてしまいます。

壮大で夢のある都市伝説
源義経=チンギスハンは事実か分かりませんが、義経が逃げ延びていた可能性は高いと思います。
平泉に刺客を送ったこともそうですが、義経が北へ北へと逃げ延びていく道中に滞在した場所が歴史の記録に多数残っているからです。
そうしたことを考えると、源義経は死んでいなかったという話が出てもおかしくないと思いませんか?

歴史は歴史書などを参考に、作られていきます。なので、解釈の違いから間違った歴史が作られる可能性も否定できません。
実際に昔は真実と思われていたことが、近年では間違いだったという歴史も多いですよね。
もしかしたら数年後には、源義経=チンギスハンというのが定説になっているかもしれません。
